生きづらさとは、現代の臨床において重要な中心的な概念ではないかと感じています。周辺にある悩みや一見関係のない悩みを理解する上でも生きづらさという言葉やその背景を知ることはとても意味があると感じています。
何が要因なのか、具体的にはどのようにすれば改善できるのか、について少しでも多くの人に伝えたいと思い、医師の監修のもと公認心理師が、まとめてみました。
よろしければご覧ください。
<作成日2015.12.27/最終更新日2024.6.4>
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この記事の執筆者みき いちたろう 心理カウンセラー(公認心理師) 大阪大学卒 大阪大学大学院修了 日本心理学会会員 など シンクタンクの調査研究ディレクターなどを経て、約20年にわたりカウンセリング、心理臨床にたずさわっています。 プロフィールの詳細はこちら |
この記事の医療監修飯島 慶郎 医師(心療内科、など) 心療内科のみならず、臨床心理士、漢方医、総合診療医でもあり、各分野に精通。特に不定愁訴、自律神経失調症治療を専門としています。プロフィールの詳細はこちら |
<記事執筆ポリシー>
・公認心理師が長年の臨床経験やクライアントの体験を元に(特に愛着やトラウマ臨床の視点から)記述、解説、ポイント提示を行っています。
・管見の限り専門の書籍や客観的なデータを参考にしています。
・可能な限り最新の知見の更新に努めています。
もくじ
・生きづらさとは何か?
・生きづらさのメカニズム~「関係性の個人化」と「強迫的な内面化」
・家族における生きづらさ
・職場における生きづらさ
・生きづらさという概念の起源
・生きづらさの背景
・身近な人間からもたらされる「関係性の個人化」
・心理カウンセラーでさえ「個人の責任」という信念から自由ではない
・生きづらさを抱えている人は、むしろ社会性が過剰な状態にある
・生きづらさを克服する方法
→関連する記事はこちら
▶「モラハラ(モラルハラスメント)への対策、対処法~6つのポイント」
▶「トラウマ(発達性トラウマ)、PTSD/複雑性PTSDとは何か?原因と症状」
今回の記事では、生きづらさとはなにか?について社会学など様々な知見からまとめています。そのためご覧になられた方の中には、「あれ?でも、生きづらさって例えば発達障害でも生じるし、HSPでも生じるし、個人が抱える問題によってさまざまではないの?」と思われるかもしれません。しかし、そうではありません。私は著書(『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』)の中でも書かせていただきましたが、「生きづらさとは本来、社会から持たされるもの」です。例えば「障害」もかつては障害者個人の障害の程度がすなわち「障害」とされてきましたが、現代では社会の在り方によって規定されると理解されるようになってまいりました。社会や環境が変われば”問題”とされなくなるものは多く存在します。生きづらさも同様で、社会、環境からもたらされるものに対して、脆弱性を抱える個人のせいにされる、というのが生きづらさの本質にあるものです。しかしなかなかそのことが理解されず、個人に還元するような言説は多く見られますし、当事者もそのようにとらえている場合が少なくありません。適切な知識を知れば、それが個人のせいにされがちな生きづらさを社会に押し返す力となります。よろしければ、ご覧ください。
生きづらさとは何か?
生きづらさとは、当人をとりまく理不尽な環境に問題があるにも関わらず、それらを全て個人の責任とされ、罪悪感を植え付けられ、その結果、外的規範の強迫的な内面化 と過剰適応によって自己否定感や周囲と一体となれない疎外感などを感じさせられてしまうことをいいます。
2000年以降に顕在化した社会現象でもありますし、それ以前からもある悩みにも共通するメカニズムでもあります。
生きづらさのメカニズム~「関係性の個人化」と「強迫的な内面化」、そして「過剰適応」
・関係性の個人化
人間とは「環境によって規定される存在」です。個人の力では環境に抗うことは非常に難しいものです。生まれた国や社会の言葉を用いている事自体、人間が環境から自由ではないことを表しています。学歴や仕事の成果など個人の努力の結果と思われるようなことでさえも、バックグラウンドである出身の世帯収入や友人関係が作用していることが明らかになっています。コミュニケーションなど個人の資質と思うことも仕事や技術、人間関係の土台がなければスムーズに行えなくなってしまうものです。
環境によって私たちはいくらでもダメな人間になるし、良い人間にもなる、人間とはそのような存在なのです。
最近20年を見ても、グローバリズムや格差、コミュニケーションの基盤となる“しごとの喪失”など環境の変化は多くありました。しかし、近代個人主義はそのことを見えなくし、環境要因を全て個人のせいとしてしまいます(関係性の個人化)。
・強迫的な内面化
環境の影響は、現象としては「個人の失敗」としてあらわれます。そのため、本人も「自分はダメ人間だ」と思って、生きづらさの原因を自分の努力不足として半ば受け入れます。ただ、直感的には「何かがおかしい」とも気づいているのですが訴えることができないし、誰からも理解してもらうことができません。
生きづらさの原因を個人に帰属させる直接の言動は、身近な家族や友人からもたらさられます。「いつも失敗ばかりでダメなやつだ」「言い訳せずに、努力しろ」といった督励などがそうです。そして、その言動によって罪悪感を植え付けられ、私たちは支配され、孤立させられてしまいます。「おまえはダメ人間だから、私の指導に従え」と、一見正しく見える常識や規範を強迫的に内面化させられてしまいます(強迫的な内面化)。
内面化を促すものは「罪悪感」です。罪悪感を植え付けられることで、私たちは少々違和感があっても、与えられる常識や規範を飲み込もうとします。
幼い子供であれば、何もできない姿を取り上げて「言うことを聞かない悪い子だ」だと精神的に虐待を加え、罪悪感を植え付けます。夫婦であれば、例えば家事が苦手なパートナーを責める。職場であれば、十分な教育を施さないままできない相手を責める。まさにかつての植民地の住民のように、ダメな状況を作っておいて、失敗させ、責めて精神的、肉体的に支配するということがおこなわれています。
・過剰適応
ダメな人間だと思い込まされ罪悪感を植え付けらさているため、リカバリしようと過度に社会性を発揮して空回りを起こしてしまいます(過剰適応)。その結果、過剰適応がもたらす過敏さと空回り、さらに他者と一体になれない疎外感に苦しみ、不器用な自分を責め続ける悪循環に陥らされてしまうのです。
これが生きづらさの正体です。このメカニズムはさまざまな悩みにも共通するものです。
家族における生きづらさ
・力を発揮できなくする家庭環境
家庭においても、どのように育つのか、どのような力を発揮できるのかは環境に依存します。しかし、一方的に過剰な規範の押し付け、暴言や決め付けなどハラスメントを仕掛けて当人が力を発揮できないようにしている家庭環境はあちらこちらに存在します。
力を発揮できないことをいいことに「ダメな子ども(あるいは夫、妻)だ」と叱りつけ、抵抗すれば「言うことを聞かない」と罵倒する。罪悪感を植え付けられ、親やパートナーが押し付ける規範を内面化しようとする。家族の期待にこたえようとする。でも、できない。なぜなら、力を発揮できないような環境にあるから。本人は、幼いころに理不尽な環境にあったことを覚えていないこともしばしばです。
・家族が社会のジョウゴとなり、生きづらさを注ぎ込む
また、社会的に厳しい環境にあるのに身動きがとれない状況を、本人のせいにされて家族から責められる、ということも起きます。家族が社会のジョウゴとなって、その苦しさを注いでくるのです。
劣悪な環境にあるのに、「関係性の個人化」によって、当人のせいにさせられてしまう。直感的にその構造を見ぬいて指摘すると、「人のせいにするな」「環境のせいにするな」と反論されてしまう。(あからさまではなく、もっと巧妙に支配されてしまっている場合もあります)
・つくられる”現実”に追い込まれる
現実に結果を出せていない自分がいるので、ますます自己嫌悪に陥らされてしまい、反論すらできなくなってしまう。でも、心は気づいているので、生きづらさは極限に達している。
理不尽な環境から抜けだそうとしても、自分では経済的にも能力的にも自立することができないと思わされている人も多くいます。さながら囚われの身の象のように、精神的な足かせを架されて、自立することをちゅうちょするような状態に陥らされています。
職場における生きづらさ
・きしむ職場
仕事は環境に依存します。個人の力といってもたかが知れています。しかし、ここ20年で実力主義が広まったことで、仕事が本来環境に依存していることが自覚されなくなってきました。そのうち、職場でもすべてが個人のせいとされる<関係性の個人化>が当たり前となり、生きづらさが完成します。
組織が疲弊したり、仕事を伝えたり、教えたりする機能が失われた職場も多い中、仕事のしづらさや、人間関係のきしみが生じています。
・個人のせいにされる職場の機能不全
機能不全な職場に入った人はどうでしょうか?ミスを頻発したり、職場の雰囲気が悪いために、過度に責められたりすることもあります。結果、個人のせいにされたり、本人もそう考え、悩んだりします。こんなにミスする自分は、発達障害なのではないか?と思い込む人も珍しくありません。
実は環境の機能不全に原因があるのですが、周囲も本人もそのことに気がつかないのです。失敗は全て本人のせいにさせられてしまいます。
・守るものがないまま、強いストレスにさらされる
成果を強く求められる職場では、目標、目標、と追い立てられ、目標を達成しても常に上乗せの目標を示され、達成できなければ切られてしまう(評価されなくなってしまう)、という地獄のような環境で働いています。
目標がない職場でも、ギスギスした不機嫌な職場のいびつな関係性の中、おかしいと声を上げたくても、「あなたにも問題があったのでは?」といって生きづらさを生む構造が見逃されてしまう。
自分を守るものがないまま、むき出しの個人のままで対処を強いられるため、過剰に気を遣うようになり内面はヘトヘトです。
・大切な“つながり”“一体感”
生きがい、働きがいということについて皆様も思い返していただければわかりますが、個人の責任が過度に強調されている場面よりも、文化祭の準備のようにチームワークとして取り組んで楽しんでいる場面がやりがいもあるものです。チームではなく個人で働くにしても、自分の働きが周囲に承認されている環境はとても働きがいがあるものです。
つまり、“つながり”“一体感”こそが大事で、個人で仕事をするフリーランスでさえも、仕事の取引先や、消費者との一体感を感じて仕事をするのでなければやりきれない。仕事を覚えるのも成長ですが、それによって物事や人との付き合い方を学んでいき、社会とつながることができるから楽しいのです。
・崩れてきた仕事のしくみ
しかし、仕事のしくみが崩れてきて、「関係性の個人化」によってあらゆるものが個人の責任とされてしまうと、うまく物事や人と付き合うことができなくなってくる。そして、すべて自分のせいにされ、その重みに耐えている心の底が抜けて働けなくなってしまうのです。働くことができている人も、適度に紛らわせないとやりきれない状態が定年まで続くことになるのです。
ここから、よりくわしく、あなたが生きづらい、その背景を見てきます。
生きづらさという概念の起源
生きづらさという概念、言葉が登場したのは、つい20年ほど前であり、とても新しい現象です。
例えば国会図書館の蔵書検索を行ってみるとわかりますが、「生きづらさ」を冠した最も古い論文は1981年になります。しかし、81年は1本だけで、次に古いものは、いきなり2000年まで飛んでしまっています。書籍などで本格的に取り上げられるようになったのも、2000年代頃からになります。
若者の問題を扱っている渋井哲也というライターも、インターネットの記事の中で下記のように書いています。
「私が使い始めた1998年、今から15年前は、浸透しておらず、書籍や雑誌の編集者に対しても説明が必要だった。そのため、「生きづらさ」という言葉を使わないか、定義をしてから書いていたものだ。」(「生きづらさという言葉を問い直す」より)と、つまり、98年時点では、誰もが了解できるような言葉ではなく、新しい言葉であったようです。
それ以前はどうだったか?というと、「苦悩」「悩み」「生活苦」といったことはありましたが、生きづらさという形で実感、表現されてはいなかったようです※。
1995年のオウム真理教事件の際も、多くの若者が世の中に違和感を感じて入信したわけですが、報道などの中でも「生きづらい」という言葉は耳にはしませんでした。もし、そうであれば、その時点で生きづらさというテーマで、相当議論になっていたはずです。
オウム真理教事件は、どちらかというと、学歴エリートを中心として、バブルのような消費社会への違和感や疑問や、「生きる意味」を求めて、といった形であったように記憶しています。生きづらさは、90年代末から徐々に見られるようになり、2000年以降に本格的に感じられるようになってきた社会的な現象です。
※社会学者の小熊英二は、全共闘運動などがさかんになった1960年代後半ごろを生きづらさといった「現代的不幸」の起点としている。当時は、それを表す言葉がなく、代わりに当時の若者達はマルクス主義の言葉を借りて、「疎外」や「主体性」といった用語で表現したり、遠いベトナムでの戦争などの政治と結びつけて考えていた、としています(出典:小熊英二「1968【上・下】」(新曜社))。
生きづらさの背景
・生きづらさは社会との関係において生じる
生きづらさとは、内面の問題だけではありません。社会的背景を伴った悩み、現象です。病や悩みというのは社会的に構成されるものですが、特に、生きづらさは、社会・世の中(の入口としての友人、会社、家族)との関係において生じる問題、ということがいえます。
・偶然ではない、貧困、発達障害、不登校などとの関係
生きづらさ とセットとして語られる問題で多いのは、貧困、発達障害、不登校などが挙げられます。どうしてこれらが生きづらさとして感じられるのでしょうか?これらが取り上げられるのも偶然ではなく、生きづらさということに共通する特徴がよく現れているからです。
・さまざまなことが生きづらさの背景となっている
ルポなどでは、しばしば、新自由主義(ネオリベラリズム)が原因として取り上げられます。確かに、日本でも小泉内閣の誕生などを境にして格差がひろがり、その後リーマン・ショックがあり、年越し派遣村のようなことがありました。それも、もちろん背景の一つであることは間違いないのですが、新自由主義だけが要因ではなく、複数のことが背景になっていると捉えるほうが適切ではないかと思います。
消費社会化による“しごと”の喪失 と<サービス産業化>
日本においてその到来は1970年代半ばとされています。80年代はまさにその爛熟期になり、バブルでその頂点に達します。どうして消費社会化が問題なのかというと、それは、生活から”しごと”がなくなることと関係する事象だからです。
・消費は人を孤独に陥れる
シェークスピアの翻訳で知られる劇作家の福田恆存の有名な言葉に、「人間は生産を通じてでなければ付合えない。消費は人を孤独に陥れる」というものがあります。これは消費ブームが起きた頃(1961年)の言葉で、当時どこまで理解されたのかわかりませんが、時代が進むにつれてその先見性が評価されています。
福田恆存は、こうも言っています。
「今日では、夫婦生活の目的は精神的な理解にあるとか、性生活にあるとか、そんなことを考えて、夫婦水入らずの二人きりの生活を欲し、家庭内のあらゆる生産手段を雑用と称して最小限に切り捨てて合理化して、その後に何が残ったか。お互いに相手に付き合うきっかけもよすがに失ってしまったではないか。」と
つまり、「生産」とは<しごと>のことですが、人間は<しごと>を通じて、人とコミュニケーションを取るものだということです。
・人は<しごと>を通じて、コミュニケーションを取る存在
かつては、職住も一体で、さらに電化製品も発達していませんから、今では機械がしてくれるようなことでも人間が行わなければならず、家庭には<しごと>がたくさんありました。そうした<しごと>の所作や、型を通じて、人はコミュニケーションをとるものだということです。たとえ無口な人でも、不器用な人でも、<しごと>を通じることで普通にコミュニケーションを取ることができていました。それは、言葉だけではないノンバーバルも含めた豊かなコミュニケーション(付き合い)です。
逆に、普通の人でも<しごと>がなければ、コミュニケーションを十分に取ることができなくなってしまうものなのです。
・<しごと>を失い、わたしたちは付き合いを喪失した
たとえば、私たちの休日の生活をみるとわかりますが、一切コミュニケーションを取らなくても生きていくことができます。一言も話をしない休日などはまれではありません。趣味やボランティア活動等などでわざわざ役割を作り出すのでもなければ、人に対して声をかけたり、関わるきっかけもないことに気づきます。
消費だけで<しごと>、役割がなければ人間は人とはうまく付合えないのです。消費社会化の問題点は、<しごと>が「雑用と称して切り捨てられ」、「相手に付き合うきっかけもよすがに失ってしまった」ことなのです。
・非定型化する仕事
では、働いている人は問題ないか?というとそうではありません。消費社会化と並行して、会社の<しごと>においてもサービス産業化が進行しました。単にサービス産業が増えたということだけではなく、農業や工業のような従来の仕事においても、ハードウェアと向き合うための専門技術や技能といった型や所作が重視されるものから、目に見えないソフトウェアを扱う仕事が増えていきました。
昔であれば、「営業とは~~だ」「事務とは~~だ」と業務を定型で定義できましたが、現在では定義できなくなり、何でもやらないといけなくなりました。その現象を、古い体質を打ち破る精神といえば聞こえがいいですが、逆に言えば 何も決まっていない非定型の仕事が増え、結果、IT化は進んだけども、遅くまで残業しなくてはならなくなりました。
参考・出典:「福田恆存「消費ブームを論ず」「福田恆存評論集第16巻」(麗澤大学出版会)」
大学進学率の急激な上昇と教養の衰退、社員教育の薄弱化
・大学進学率の急激な上昇
さらに、大学進学率の急激な上昇が起こります。90年までは25%程度だったものが2023年度では約60%までに上昇しています。高校を卒業した学生の6割が大学に進学するということです。
これは、社会の構造からしても異様なものです。時代の変化の必然以上に大学卒業者が過剰にあふれてしまったのです。本来、社会はホワイトカラーが必要な領域は一部で、技能人材といったものに多く支えられてさまざまな産業が成り立っています。
しかし、本来は高校を卒業し、専門職として技能を身に付ける層まで大学に進学するようになり、卒業したはいいけども就職先は専門知識を活かせるような職場ではない、といった状況になりました。
・教養の衰退
さらにそれらに並行して生じたのが、「教養の衰退」です。
教養とは、歴史家の阿部謹也が「教養とは一人ひとりが社会とどのような関係を結んでいるかを自覚できている状態というのであって、知識ではない」(出典:阿部謹也「教養とは何か」(講談社))といっているように、見栄や知識のためではなく、インテリやホワイトカラーが世の中で生きていくための精神的な“型”や“関わり方”を身につけるために存在しているものでした。
・丸腰で社会に放り出される若者たち
しかし、90年代に教養課程がその意義や質を問われて衰退していったことも相まって、増加した大学進学者の多くが社会と向き合う“型”や“関わり方”を身につけられないまま、社会に放り出されることになりました。さらに、バブル崩壊後、企業側も社員教育にかけるコストを減らし、即戦力を求めるようになったことで、かつては、就職してから家族のように、しっかりと教育を受けさせて一人前に育てていくことが少なくなり、新入社員も最初から1人前を求められるようになりました。
つまり、就職してからの仕事についても<しごと>を喪失したような状況、自分を守ってくれる技能や型を身につけられるような環境は失われていきました。新入社員もかつてのような大量一括採用ではなく、厳選した数名ということも珍しくありません。配属先では、ベテランの社員たちの中に、新入社員一人と言った状況も見られ、かつてであれば、年次の近い先輩社員が兄貴分として仕事を教えてということがありましたが、それも少なくなり、仕事を教えてもらえる機会や付き合いの難しい状況となりました。
派遣社員も同様に専門技能を元に渡り歩いていく、というよりは、いつでも代替の効くような仕事が中心です。ある程度仕事がこなせることを前提に、景気が悪くなると切られてしまう、という状況です。
教育もなく、また、非定型な業務が増えたことで、仕事の型や所作よりも、個々人のコミュニケーション力といった“生身の能力”が求められるようになりました。
失業やグローバリゼーション
リーマン・ショック後は、失業率も上がり就職難に苦しむ方も急増しました。まさに、仕事そのものにつけないという状況です。また、グローバリゼーションの進行も影響が大きく、自分たちの声が届かない地球の反対側の出来事によって、雇用など自分たちの生活が脅かされ、個人の努力不足として指弾されるようになってきたのです。
核家族化、人間関係の希薄化の進行
一方、生きづらさを生む内的な要因に影響するものとして核家族化、人間関係の希薄化の進行があります。
・「依存する相手が減る時、人はより従属する」
核家族化や人間関係の希薄化がなぜ問題なのかというと、ハラスメントを研究されている東大の安冨歩教授が言っているように「依存する相手が減る時、人はより従属する」ということにあります。
かつてであれば、人間は生きていくうえで、家族や地域など、多くの人に頼りながら生きていきました。しかし、核家族化で特定の個人との関係だけに頼ることが多くなります。そうすると、特定の人への関係の中で従属しやすくなり、「ハラッサー」という、他者を悪意で縛る存在に支配されてしまうリスクが高まります。毒親、モラルハラスメントなどが問題になってきた背景にはこうしたことがあると考えられるのです。
そうした関係の中で成長すると、社会に出てからもおかしな状況も疑問に思わず、理不尽を当たり前として受け入れて、職場のハラッサーに呪縛されていくことになります。昨今、ブラック会社が氾濫する温床と考えられます。
・そして、生きづらさは生じる
社会とは、<しごと>を通じて、付き合っていくものなのですが、就職できない人はもちろん、就職してからも、非定型な業務の中、かつてのような社会との付き合いの媒介となる<しごと>の機能は衰退し、教養という衣もないまま丸裸の“生身の自分”で付き合い、付き合いきれなくなり不適応を起こす、という現象が生じたと考えられるのです。
さらに、依存する対象が少なくなる中で、周囲に過剰に適応しようとしすぎて、結果、モラハラも生じやすくなってることもあります。
このような背景を見ているだけで頭が痛くなってきそうですが、不適応を起こして生きづらさを感じるほうがむしろ正常な反応ともいえます。生きづらさを感じないというのは、たまたま幸運が重なっただけなのかもしれません。
新自由主義と「関係性の個人化」
・新自由主義は「関係性の個人化」を促進させる
新自由主義は、競争や格差を拡大させ、そのことが問題とされますが、実は、最も恐ろしいことは、「関係性の個人化」をより強く引き起こすということです。
新自由主義は、政府を小さくして、市場を重視、競争重んじます。その背景には、自由で責任をもつ個人を想定しています。ただ、人間というのは、自由な個人で成立している、というのは神話でしかなく、実際は、環境や関係性に大きく規定される存在です。例えば、仕事や勉強などは個人の才覚や努力の結果だと思われていますが、実際には、学歴などは生まれた家の所得や環境に大きく規定されることがわかっています。
会社での業績も同様です、所属している部署の成績や環境に大きく規定されます。しかし、実は能力など測りようもないですし、個人の裁量でなんとかなる部分というのは実はとても少ないのです。
・「関係性の個人化」とは
心理学においても、自由意志などは信念に過ぎず、人間は環境によって規定される「外来要素の沈殿物」とされています。それが人間の実態で、環境要因が限りなく9~10割というのが事実なのに、すべて「~~力」というように名付けられて、個人の能力のせいだ、とされるようになりました。
このように、本来は環境や関係性の問題なのに個人の責任に帰属されることを社会学者の貴戸理恵氏は<関係性の個人化>と呼んでいます。個人の問題ではないものを、あたかも個人の問題であるかのように原因を帰属させてしまうことです。
・社会の問題がジョウゴのように個人に注ぎ込まれる
これまで見たように、生きづらさを生む背景には、
・近代化
・消費社会化による<しごと>の消失
・サービス産業化
・仕事の非定型化
・不況
・教養の衰退
・核家族化と関係の希薄化
・グローバリゼーション
など、さまざまな問題がありますが、「関係性の個人化」が恐ろしいのはこうした巨大なものを全てジョウゴのようにまとめて、一個人に注ぎ込んで、その人のせいにしてしまうことです。
・気づかない間に個人のせいにされてしまう
それぞれは、各論においては、「個人に責任がある」ということはもっともに見えます。さらに、生きづらさの当人も問題の背景に気がつきません。背景に気づいて指摘しても、「言い訳」として指弾される。努力して変えようと思っても、大きな背景によって生じている問題ですから、一個人では変えることができず返り討ちにされてしまい、自分はダメだ、という自責の念に駆られてしまう。がんじがらめです。
「どうしていいかわからない」「どうしようもない」というのは、生きづらさを抱える人の多くが感じる、心の叫びですが、実はこうしたことに原因があるのです。
自分のものではないものまで、自分のものとされてしまうのですから、<生きづらい>と感じて当たり前なのです。
その他~立場によってさまざまな環境要因
以上にあげた要因はあくまで主要なものです。立場によって問題を引き起こす環境要因はさまざまです。特にマイノリティとされる人には顕著に現れますが、それぞれの状況で起きる環境要因が「関係性の個人化」によって個人に責任が向けられ、生きづらさを生むという構造は変わりません。
身近な人間からもたらされる「関係性の個人化」
「関係性の個人化」は、環境や関係性に原因があるものを、全て個人に帰属させられてしまうことでした。では、「関係性の個人化」はどこからやってくるのでしょうか?日本政府?会社?社会?もちろんそれもありますが、実は、多くの場合、社会の価値観を内面化した親やパートナーといった身近な人を入口としてもたらされます。
・「個人の責任」という信念とハラスメントコミュニケーション
私たち自身も「個人の責任」という観念を強く信じています。ついつい、「結局、その人のせい」「環境や世の中のせいにするのは何も解決せず、言い訳だ」と考えています。家族やパートナーたちはそうした信念のもと、ハラスメントコミュニケーションによって「関係性の個人化」を強いてきます。
ハラスメントコミュニケーションとは、別の記事でくわしくご紹介しますが、ダブルバインドを利用して、自分の価値観を相手に強いて、相手が心とつながり、社会や世の中とつながることを妨げることです。
・「あなたが悪い」という呪縛
私たちが生きづらさを感じていて、動きたくても動けなくなっていると、周囲は「あなたが悪いんでしょ?」という<関係性の個人化>を促すメッセージを送ってきます。直感的にはおかしいと思っても反論できない。環境がおかしいと訴えても、「言い訳でしょ」「環境のせいにするのは社会性がない、性格が甘えている」とさらなるメッセージを送ってきます。そうすると、自分の直感を信じることができなくなります。自分で自分を責めるようになります。
・相談することで被るセカンドハラスメント
さらに、セカンドハラスメントといいますが、相談する相手を間違えると、相談相手(第三者)から「世の中ってそんなものだよ」「みんなつらいのを我慢しているんだよ」と返答され、問題を問題としようとすること自体がおかしいとされてますます追い込まれてしまいます。
・生きづらさの完成
その結果、周囲の人たちとのつながりも絶たれてしまい、原因を明らかにしようとする意図も挫かれ、生きづらさが完成してしまうのです。
・誰も味方がいない。自分を信じてくれない。
・真の原因に目を向けることができない。
・逃げ場がない。
ということですから、本当につらい状況です。
生きづらさは、環境や社会との関係性の中で起きていることが全て自分の問題とされてしまうこと、さらに身近な人との関係も絶たれてしまうこと、原因の探求を封じられてしまうこと、その3つによって構成されているのです。
こうしたことは本当に理解されているとはいえません。「個人の責任」とか「努力しないといけない」という信念は世の中に根強くあるからです。生きづらさから逃れるためには、理不尽な状況に気づき、相対化させていく必要があります。自分で解決することが難しい場合はサポートしてくれる人が必要ですが、本当に頼れる先はなかなか見つけにくいといえるでしょう。
心理カウンセラーでさえ「個人の責任」という信念から自由ではない
問題解決をサポートするはずの心理専門職(カウンセラーなど)でさえ「個人の責任」という信念からどこまで自由なのか、生きづらさのメカニズムを自覚できているのかについては大変あやしい状況です。
カウンセラーは相手に共感しようとして対応しています。表面的には、相手を受け入れているようにしています。しかし、カウンセラーも社会の影響を受けた人間、頭の中は「個人の責任」と思っている人も多くいます。生きづらさに悩むクライアントの苦境を本当に「理解」することはできず、改善しないクライアントにイライラしてきて、うっかりクライアントを責めたりということが生じます。
逆に、生きづらさがどこから来ているのか構造的に把握できていれば、クライアントの苦しみを真に理解することができます。クライアント自身も、自分の生きづらさの背景が何かがわかればそれに抵抗ができるし、自分を責めることもなくなります。
ただ、この構造は自分だけでは気づきにくい。そのため相談する相手を探すことも難しい。構造や背景に気づきにくい、隠ぺいされている、相談できない、というのも生きづらさの特徴といえそうです。
生きづらさを抱えている人は、むしろ社会性が過剰な状態にある
生きづらさの当事者たちは、周囲からは「性格が甘えている」「社会に適応できていない」「社会性が不足している」といった目で見られがちです。そして、本人たちもそう思っていたりします。とても自信がありません。生きづらさを抱えている人は本当に社会性がないのでしょうか? 実態は、むしろその逆だったりするのです。
上記で紹介しました社会学者の貴戸理恵氏が書いていますが、生きづらさを抱えている人は、むしろ社会性が過剰だといえるのです(出典:貴戸理恵「「コミュニケーション能力がない」と悩む前に」(岩波書店))。
・生きづらさを生む”社会性の過剰”
社会学(ミードなど)では、社会的な自我の発達、「他者が自分を見るように自己を見る」ことをもって社会性の獲得とされます。生きづらさを抱えている人は、とても真面目で、周囲からのまなざしを自分のものとして、自分自身を強く責める傾向があります。周囲からくるまなざしを受け入れているために、逆に動けなくなってしまっているのです。自信も失われてしまいます。
「あなたはダメな人間だ」というのが周囲の“期待”とするならば、本人は、周囲の“期待”を忠実に実行しているわけです。「他者が自分を見るように自己を見る」をもって社会性の獲得とされるのであるならば、生きづらさを感じている人たちは、十分に社会性があるといえます。
生きづらさを感じている人たちは甘えているどころか、環境や関係性の問題を個人のせいにさせられて生きてきて、普通の人よりもはるかに厳しい環境をサバイブしてきたといえるのです。つまり、生きづらさとは、社会性がないのではなく、むしろ社会性が過剰なのです。
・必要なのは「過剰な社会性」を緩め、自分が大丈夫だと知ること
過剰に社会性を引き受けて生きているために、つらさを感じて動けなくなってしまっているのです。過剰だから、本来は過剰さを緩める必要があります。周囲や社会から来るメッセージはむしろ逆です。「甘えるな」「社会性を獲得せよ」と強いられるのです。ほんとうにつらいことです。
以前、当センターでひきこもり気味の家族のご相談がありました。うかがっていると、その方はとても繊細な様子です。ご相談してこられた家族の方は、その方に“社会性を身につけさせるためのカウンセリング”を受けさせたい、ということでした。しかし、弊社のカウンセラーは、「カウンセリングは必要ないと思います」と答えました。
なぜかというと、その方は、周囲のまなざしを内面化して十分に悩んで苦しんでいたからです。過剰な社会性によって苦しんでいるから動けなくなっていたのです。足りないのは社会性ではなく、周囲の理解と「あなたは何も問題がない」というメッセージだったのです。
カウンセリングなど受けさせたら「カウンセリングを受ける必要のある人間≒あなたはおかしい」となって、むしろマイナスのメッセージが入ってしまっていたことでしょう。カウンセラーは、「何もする必要はありません」「ただ、家族の方が心の中であなたは大丈夫、と思うだけで結構です」とお答えしました。結果的には、カウンセリングなど必要なく回復していったのです。
生きづらさを解決するためには、自分は「関係性の個人化」によって身動きが取れなくなっていることを知り、むしろ「過剰な社会性」を緩める必要があります。
生きづらさを克服する方法
生きづらさを克服するためには、まずは、生きづらさの構造を知り、自分のせいではないと知る事が必要です。そうすることで、じょうごのように注がれる環境からの影響を外部化することができます。
また、自分の中にも内面化された常識や規範に気づくことも必要です。自らを「ダメな人間」と規定していた常識が決して正しいものではなく、強制されたものなのだと気づくことができます。
もし、環境が悪いようでしたら、少しずつでいいのでその環境から逃れることを考えます。環境からの影響に抗うことはとても難しいからです。ある人は異動、ある人は転職、ある人は結婚、ある人は離婚かもしれません。
内面化された規範や環境にどうしても執着してしまう場合は、トラウマの影響(罪悪感など)が疑われますので、トラウマを取り除く必要もあります。
本来の自分というものが何も問題がない、そのままでいいと思えるようになり、自分の心に従って生きることができるようになれば生きづらさから自由になることができるのです。
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▶「トラウマ(発達性トラウマ)、PTSD/複雑性PTSDとは何か?原因と症状」
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(参考・出典)
貴戸理恵「「コミュニケーション能力がない」と悩む前に」(岩波書店)
本田由紀「多元化する「能力」と日本社会 ―ハイパー・メリトクラシー化のなかで」(NTT出版)
本田由紀「軋む社会---教育・仕事・若者の現在」(軋む社会)
福田恆存「消費ブームを論ず」「福田恆存評論集第16巻」(麗澤大学出版会)
みきいちたろう『発達性トラウマ 「生きづらさ」の正体』(ディスカヴァー携書)
など